卒業式まで死にません - 女子高生南条あやの日記

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)読み終わりました>卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫).事実であるが故のこの重さ.よくよく考えるととんでもない内容なのに,それを感じさせない語り口調.日記という性質上,起承転結とかストーリーとか無いように見えますが,よくよく読むと「転」が本文中に,「結」は本文以外の形で表現されてますね.そこを書籍化したという感じでしょうか.

あや嬢の語り口調から,そんなに深刻じゃないのか?という錯覚さえ覚えますが,香山リカによる解説にも書かれているように,これは深刻さの裏返しであると気付かされました.そもそもこういう症状に陥る時点でココロが繊細である訳で,そんな繊細の人がドス黒いを日記を並べて終わる訳ありません.常に読者や周りの人々,家族(父)さえも気にして,本人曰く錯乱した日々を過ごし,それを綴っている訳です.結局,彼女の不幸は,それを十分に抱擁してもらえる環境に恵まれなかったことかとも思いましたが,そんな環境はこの世のどこを探しても見つからないんだろうなぁ.

もう一つ.この本,解説も熱いです.(特に)自傷というのは,今まで,家族や他人や自分への当て付けだと思っていたのですが,香山リカ見捨てられ感と述べている論文を引用しています.これは,初めて気付かされました.つまり,なんか落ち込むことがあったとき,自分で自分を慰める能力が低いため,他者に慰めを求める.でも,慰めてもらえる環境に居ないため,自分自身も自分を見捨ててしまう.しかし,無意識の領域ではそれを否定するために,自傷などのパニックが起こるという訳です.分かりにくいかな.

あや嬢の日記はフリーの薬事ライターのスカウトによってインターネットに登場することになったわけですが「メディアの功罪」はどうなんでしょう.日記読者からの反響によって彼女の自傷は激しくなったのではないかと思います,これが真実ならその点では罪.だけど,読者に支えられ,つまり,次の日記を期待されることによって,彼女の自殺執行はかなり後延ばしになったのではないでしょうか,その点は功かと.結局同じところに行き着くというのは胃が痛むことですが...

メディアの話のついでに,従来の書籍などとインターネットの違いについて思うことをば.書籍のような本格的なマスメディアに載る時は,どうしても編集意図が入って,著者が違和感を抱いたりする出来になってしまうことが多いのですが,インターネットはその点では素晴らしい.逆に言えば,校正もされないままの取るに足らないようなコンテンツが山ほどあることになるのですが,宝かゴミかは読者の判断,つまり,引用やリンクによって示される仕組みということですな,今さらですが.

話が発散してしまいそうですが,結局,これからは「この人は本当はどう思っているのか,そして,この人の無意識領域では何を感じているのか」に目をつけて生きていきたいです.

ところで,あや嬢は某自殺マニュアルでクスリの知識を得たわけですが,こういう症状の人って,なぜかクスリに詳しいですよね.例えば,普通の人が風邪を引いて薬を処方されても,後からその薬の名前を言える人って少ないと思います.私も病院で「このクスリ飲んでみる?」とクスリの名前を挙げられるのですが,分からんっちゅーの.というか,患者に聞くな.今度聞かれたら「リタリンください」とか言ってみようかな(笑